その地で生きる人々と共に
仮設住宅などでのディアコニア(奉仕、支援)報告書
2015 年 7月 31日


更新が空いてしまいました。

震災から4年と8ヶ月を過ぎました。
被災者の皆さまのご生活と平安をお祈りいたします。

宮城県南部から福島県北部で活動を展開されている
「Cafe de ふくしま」、
カベナント教会の石川和宏さんの活動報告をお届けさせていただきます。

放射能被災地での生活は、苦しいものです。
健康被害、生活再建、家庭や地域の将来像の構築、、、あらゆる課題が山積しています。
そういった地元の現在の課題と支援者の皆さまは向き合っておられます。

「共に生きる」ということがよく言われます。
なぜ共に生きることを願うのでしょう。
石川さんの報告書は、まさにこの問いを私たちに投げかけてくださっているように感じるのです。

どうぞご一読ください。

(2015年11月16日 東北ヘルプ理事 阿部頌栄)

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仮設住宅などでのディアコニア報告書(6)

2015 年 7月 31日 石川和宏
*報告期間:2015 年 7 月 22日 ~ 7 月 29日


仮設住宅などでのディアコニア報告書
2015年7月31日 石川和宏
*報告期間:2015年7月22日~7月29日


【1】 南相馬市 鹿島区社協一日デイケアー施設「ニコニコ元気塾」(7月23日)
(写真1)

・社協からの要請で、今回は3回目。石川和宏と石川千鶴子が奉仕(今回のシリーズ共通)
・元気塾は、毎週木曜日9時から3時まで、週一回の集まり。マイクロバス4台で送迎している。
・鹿島区は一部が緊急時避難準備区域に含まれ、参加者のほぼ全員が避難した。
・「鹿島区在住の閉じこもりがち、軽度認知症の高齢者、避難を余儀なくされている高齢者等を対象に、介護予防を目的とした交流会(例:軽体操、輪投げ、バス遠足、保育園児・障がい者との交流など)を実施する」活動として、赤い羽根共同募金も支援している。
・定員38名で、現在入室待機者が14人いるとのこと。
・サマリタンハウスから約36㎞。6号線の朝夕の渋滞がなければ一般道で56分、高速道路経由で30分。
・こちらの持ち時間は、約2時間で、提供した腹話術・カフェ(炒り立て挽き立てコーヒーとお菓子)・DVD(綾小路きみまろライブ第4集)

支援の結果
・参加者31名。
・腹話術の言ちゃんが2回目なので、馴染みになり、声が掛かった。
・平均年齢86歳にも拘わらず皆さんお元気だった。
皆さまからお聴きしたこと
・昭和8年生まれ。家は原発から28㎞。福島市のあずま総合体育館に避難し、そこに半年居た。
・(92歳の方)半年間江戸川にいる子供の家に避難した。
・原発から22㎞。名取市の孫の家に2週間避難した。避難について行政からは何の手当もなかった。
・(妻の岐阜県出身と聞いて)「自分の周りの娘さんはたくさん岐阜に行ったが、自分は行かずに済んだ」(貧しい家庭の娘さんは、岐阜の紡績工場に働きに出されたということのようだ。)
・(103歳の方)60歳の一人息子を亡くし、お嫁さん・孫・ひ孫さんたちと暮らしている。

被災地の社会福祉
・中々世話をする人が集まらない。バスの運転手はシルバー人材センターにお願いしている。
・被災者でない人たちから不満もあるそうで、被災地の福祉関係者は、人手を原発・津波被災者に割かざるを得ず、事故がなければ当然受けられていた福祉を受けられない方々がいる。


【2】 南相馬市 寺内塚合仮設住宅 南相馬市小高区の方々 7月24日
(写真2)

・この仮設は、南相馬市鹿島区の仮設住宅が集中している一角にある。
・建設戸数174戸、150世帯入居中
・サマリタンハウスから約36㎞・一般道で56分
・住民は小高区の人が多い。浪江町・飯舘村の方も少しいる。
・「原発被災者が多い仮設」の紹介をと依頼し、社協関係者に仲介して頂いた。
・提供したのは、腹話術(「泣いた赤鬼」)・DVD上映(綾小路きみまろライブ第2集)・カフェ・軽食
・常駐している「つながっぺ南相馬」(NPO)の方(小高区の方で仮設に住んでいる)にお手伝いして頂いた。社協では手が回らないところをNPOがカバーしている。集会所をいつも開けているので、皆さんが気軽に出入りをしていた。
・自己紹介の時に「サマリタンハウスから来た」と話した。「なぜ仮設住宅を訪問しているか」という説明で、名前の由来(良きサマリヤ人のこと)を少し話しした。

支援の結果
・参加者18名(内男性2人)
・包丁研ぎ21世帯 21本(ハサミ2本)

皆さまからお聴きしたこと
◇3.11前後のこと
・ストーブで魚焼いていたが、そのままで急遽避難した。
・石神小学校の体育館に集合させられた。そこから避難所へ。

◇現在の暮らし
・7月24日にこの仮設住宅に入居した。
・阪神淡路大震災(1995年)で使った古い仮設住宅を移築した。中国製のとのこと。
・入居早々玄関にキノコが生えていた。ドアは交換してもらった。他の仮設住宅に比べて相当劣る。
・外に出てこない人が多い。朝の体操に来る人は数人だ。
・(裁ちバサミを持ってきたご婦人)女手で2人の子供を育てた。このハサミは、子供たちの塾代を稼いだ思い出があるハサミだ。
・(稲作をしていた方)青々した田んぼを見ると涙が出る。

◇放射能汚染・除染・古里の様子
・小高では家の周りに、水仙・ツツジ・あじさい・岩芝を四季に合わせて咲かせて楽しんでいたのだが…。
・来年戻ることになっているが除染は未だだ。
・農業をしていたが、農機具はそのまま取ってある。農業が再開できないことは分かっているが、機械を捨てる決断は出来ない。

◇補償・帰還・復興
・家は畳の交換など修理し、戻れるようにした。
・部落は130戸あるが、戻るのは50戸くらいだと思う。
・小高には戻らずに原町に家を用意した人も多い。
・福島は政府などに忘れ去られている。
・一時帰宅しても周りに住んでいる人がいないので、自分の家なのに居るのがおっかない。近所に人はいないし、除染で知らない人がたくさんいる。

◇Aさんの話
・福島原発に行ったことがあるが、出入りの警備は厳重だった。顔写真のある証明書を提示できないと入れてもらえなかった。厳重警備の理由を尋ねたら「テロを防ぐため」と言っていた。それなのに原発は我がで(方言=自分で)爆発した。あれほど「安心・安全だ」と言っていたが、それらはどこに行ったのか?
・東電社員は、立派な社宅でとてもいい暮らしをしていた。地元の人たちとは仲がよくなかった。(幾つかの具体的な事例も話された)
・3月12日の朝に双葉町に出掛けた。道路ですれ違う車は避難のために北上する車で一杯だったが、その時は理由は分からなかった。双葉町の訪問先は既に避難した後だった。
・その夜、外出先から家に戻ったら息子が逃げる準備をしていた。互いに「何をやってんだ」ということになった。自分は息子が何で荷物を持ち出そうとしているか理解できなかったし、息子からすれば親父は何でこの事態に出掛けてのんきにしていると思った。
・自分は長男なので、渋滞の中脇道を探して姉の家に助けに行ったが、既に避難していた。
・飯舘村・山木屋(川俣町 飯舘の南・114号線沿い)を通り、福島に避難した。あづま総合体育館で2泊し、その後飯坂温泉の旅館に5ヶ月いた。みんなに比べれば幸いな避難生活だった。
・今は、夫婦2人で4畳半一間にいる。小高の家は、10畳間が4つあったのだが。
・2人世帯でもそれが親子だと4畳半2間に入れる。

参考:3月12日の原発(1号機 出典wikipedia)
0時49分 原子炉格納容器圧力異常上昇
3時05分 格納容器内の蒸気放出(ベント)を記者発表
14時12分 セシウム検出 核燃料が溶けた可能性を発表
15時29分 敷地内モニタリングポストにて毎時1015.1マイクロシーベルトの放射線が観測
15時36分 爆発
19時55分 内閣総理大臣が海水注入を指示












【3】 福島市飯野町 旧明治小・旧飯野小仮設住宅 飯舘村の方々 7月25日
(写真3、4)

・この仮設は、飯野町にある旧明治小・旧飯野小の両仮設住宅が一つの自治会を作っている。
・サマリタンハウスから約80㎞、相馬まで高速道路、その先は一般道で1時間50分。
・住民は全員が飯舘村(*)の方。

(*)飯舘村は、帰還困難区域の長泥地区を除き、避難指示解除は2016年3月だったが、「遅くとも2017年3月」に変わった。(2015年4月22日河北新報)




・旧明治小25戸50人 旧飯野小31戸67人(2つの仮設は2㎞ほど離れている)
・飯舘村生活支援対策課より紹介して頂いた。
・今回で飯舘村民の住む9つの仮設住宅をほぼ一巡りした。(残り1ヶ所は8戸のところ)
 次回からは2順目になる。
・提供したのは、腹話術(「泣いた赤鬼」)・DVD上映(綾小路きみまろライブ第2集)・カフェ・軽食

支援の結果
・参加者5名
・包丁研ぎ5世帯6本(ハサミ1)
・お誕生日の人、に言ちゃんから折り紙のメダルを贈呈し、喜んで頂いた。
・(85歳の方・帰りがけに)「楽しかった。長生きした甲斐があった。」

皆さまからお聴きしたこと
◇3.11前後のこと
・爆発時に煙のような雲のようなものが見えた。
・原発事故後に飯舘に避難してきた浪江の人たちをお世話していた。ある日突然いなくなり、「自分たちも避難しなければならないらしい」と話した。
・偉い先生が来て、「大丈夫」「大丈夫」と言っていた。政府もそうだった。
・兵庫県の医師が来て線量を測り、「どうして逃げないのか」と言われた。村からの指示待ち状態だった。
・白づくめの防護服を着た人が長泥に来ていた。「何をしているのか?」と尋ねても答えなかった。
・避難開始と5月14日に言われ、翌15日に逃げた。
・調べると内部被曝していたので、避難所に入れてもらえなかった。
・福島競馬場の調教師が泊まる宿舎で避難生活をした。
・飯舘から出る(避難する)時は、一家で車3台に一杯家財を山のように積んで出発した。涙が出た。思い出したくない。
・避難したのが3ヶ月後という人もいた。
・女の子たちは、被曝のことを知って泣いていた。
・子供たちにとって、避難のために学校が変わるのは大変なことだった。
・避難・被曝・転校で、「以前の子供とは違う子になってしまった」という母親もいる。(涙を流しながら)

◇放射能汚染・除染
・畑の除染は、表土をはぎ取り新たな土に肥料とゼオライト(*)を混ぜて入れ替える。

(*)ゼオライト:和名は沸石。粘土鉱物。セシウムを吸着し植物がセシウムを吸収するのを防ぐ効果がある。



・土が戻っても(セシウムがなくても)、飯舘の農作物は、買う人はいないだろう。

◇現在の暮らし
・2011年7月に、抽選で当たってここに入居できた。
・隣の音が聞こえるのはストレスになる。村では家の周りでも物音はしない。
・買い物・病院は送迎バスがある。
・子供たちは傷ついている。口数が減った。
・子供たちは話さない。気持ちは分かるから(親として)辛い。
・(3.11の2ヶ月後の全村避難の前に)自主避難した人は、勇気があったと思う。
・高齢者はそれまで元気だったのに、仮設暮らしで動けなくなった。
・家庭は3世帯に分かれてしまった。
・百数十頭の牛を飼っていた。乳牛をしていた人は、泣きながら牛乳を投げた。
・飼っていた牛は宮城県に行き宮城牛になった。
・一時帰宅をするが、近所の人は誰もいないので寂しいし恐ろしい。

◇補償・帰還・復興
・帰村しても、年寄りは子供も一緒に来ないと世話(介護)をしてもらえない。
・汚染された農地は買い上げてもらえない。そうなるといいのだが。
・飯舘に広い家がある。直して帰る準備をしている。
・家の賠償は、農協が窓口で折衝している。

◇放射能汚染・除染・古里の様子
・故郷ではイノシシが(ミミズを喰うため)土を掘り返し、姿が変わってしまった。
・ブロッコリーを作っていた。高原野菜(標高450m)と言われ、寒暖差があって甘い作物ができた。
・長泥(*)地区から避難している。帰還困難区域。線量が高く一時帰宅もしていない。

(*)長泥 2011年6月30日までの推定平均被曝線量12.5ミリシーベルトで飯舘村20行政区中でも最大の行政区(出典:「飯舘村初期外部被曝評価プロジェクトの報告」原子力資料情報室)





・自宅庭で除染後でも3.0μSv/hある。除染しても線量はすぐ上がってしまう。
・線量は、雪が降ると下がる、春になると上がる。
・夫は、診断で白血球増加、血小板減少と診断されている。
・飯舘でも二枚橋(*)は、線量が低い。全村避難で、かえって線量が高いところに避難している。

(*)二枚橋 飯舘村の西端、原発から約50㎞ 避難指示解除準備区域 原子力規制庁2015年07月26日測定線量0.19μSv/h




・甲状腺がんの検診を毎年受けさせられているが、検査するという通知が来るのが怖い。
・検査の結果はA2(*)だった。

(*)A2 甲状腺の超音波検査で「5.0mm以下の結節や20.0mm以下の嚢胞を認めたもの」


・この仮設は、線量の高い場所に建てられた。室内でも線量が1.5とか1.7あった。線量を測らずに建てた。床下にモルタルを敷いてもらった。
・明治小体育館も線量が高いが避難所になっていた。今の線量は仮設住宅の周囲で0.2とか0.18。
・福島は、線量を公表しない。本当のところを隠している。
・復興住宅は、子供のいる世帯優先だったが埋まらず、追加募集している。3人世帯で2LDKで、仮設と較べてそう広くはない。


【4】 福島市南矢野目仮設住宅 浪江町の方々 7月27日

・この仮設は、福島市の北方市街地にある。東北道福島飯坂ICの近く。
・建設戸数208戸、現住者は150世帯を少し下回る。全員浪江町の方
・浪江町生活支援課避難生活支援係にアレンジして頂いた。
・サマリタンハウスから約70㎞・1時間20分
・提供したのは、腹話術(「泣いた赤鬼」)・DVD上映(綾小路きみまろライブ第2集)・カフェ・軽食
・当日は、福島市の気温35℃にもかかわらず、たくさんの皆さんに参加して頂いた。
・自治会長様・副会長様には終始快くお手伝いして頂いた。参加者が多く、炊飯器2台でご飯を炊いたが、電源が足りなさそうという自治会長様の判断でご自宅で炊いて頂いた。また、「台所は暑いでしょう」とご自宅から扇風機を運んでくださった。  

支援の結果
・参加者29名(内男性6人)
・包丁研ぎ33世帯分35本(ハサミ2本)

皆さまからお聴きしたこと
◇3.11前後のこと
・山木屋(伊達郡川俣町山木屋(*)に逃げた。

(*)伊達郡川俣町山木屋。飯舘村の西隣で浪江とは114号線で繋がっている。計画的避難地域。




・爆発後、津島にある隣の嫁の実家に逃げた。昼食を出してもらった。夜になったら「30㎞圏外に逃げろ」と言われ、田村市に行った。
・そこでは大きな民家に13人でお世話になった。隣の家が風呂とトイレを提供してくれた。布団も十分あり、みんなに比べれば恵まれていた。
・「いつまでもいていい」と言われたが、そうも行かないので、一週間後に出て避難所に行った。後で分かったが田村市の市会議員のBさんの家だった。
・岳温泉あずま館に避難した。
・入居当時は、仮設住宅で津波で亡くなられた方の葬儀も多かった。

◇補償・帰還・復興
・解除になったら帰りたい。

◇放射能汚染・除染・古里の様子
・自宅は築後17年でしっかりしている。先祖が植えた杉の木を使って建てた。大黒柱だけ他から買った。それなので、住めなくなるのは先祖様に対して申し訳ない。
・帰宅については指示が未だない。
・1年前に自宅を見に行った。前の畑が林に変わっていた。アカシアが何本も太い木に育っていた。種が飛んできたのだろう。畑も家も手放すことにした。
・家に通じる道路は、両側から草が伸び、行く度に刈っている。
・じいさん(夫)が手入れをしていた植木が(両手をくねらせて)こんなになっている。
・(ご飯を食べながら)浪江のご飯が美味しかった。自家用米は自然乾燥で旨かった。乾燥に火を入れると時間は短くなるが、美味しくない。


【5】 南相馬市 友伸エンジニアリング仮設住宅 南相馬市小高区の方々 7月28日

・この仮設は、南相馬市鹿島区の仮設住宅が集中している一角にある。
・「原発被災者が多い仮設」として訪問を希望し、社協に仲介をして頂いた。
・建設戸数138戸で、チラシ配布をした時の印象では空き家は十数軒程度。
・サマリタンハウスから約36㎞・一般道で56分
・提供したのは、腹話術(「泣いた赤鬼」)・DVD上映(綾小路きみまろライブ第2集)・カフェ・軽食
・この日も35℃と猛暑だったが、大勢の方に参加して頂いた。
・午後も、皆さんが三々五々集会所に集まっておられ、仮設を辞したのは4時近くになった。
・ここは、今年1月に続き2度目の訪問。前回は社協の「サロン」に同行させてもらい、コーヒーを出した。
・参加者のお誕生日祝いとして当月誕生日の方に言ちゃんから記念品を贈呈。会場の一体感が出る。

支援の結果
・参加者21名(内男性2名)
・包丁研ぎ17世帯分 31本(ナタ3本)

皆さまからお聴きしたこと
◇3.11前後のこと
・爆発後2晩飯舘に避難しその後娘が住む新潟に行った。
・20㎞圏内に130m外れ、避難指示(現在の避難指示解除準備区域)区域に入らなかった。それで補償金が出ない。部落も半分だけ区域に入った。20㎞線引きの中心は、広い原発敷地のどこなのか?


【6】今回出会った方など

・合計104名(男性10名) 庖丁研ぎ76世帯 79本
・連日35℃の猛暑日だったが、皆さんがたくさん集まって頂いた。






写真1 南相馬市
鹿島区社協「ニコニコ元気塾」


写真2 南相馬市 寺内塚合仮設住宅


写真3 飯野町
旧明治小・旧飯野小仮設住宅(1)


写真4 旧明治小・旧飯野小仮設住宅(2)
2軒で1棟の仮設住宅


写真5 福島市南矢野目仮設住宅(1)


写真6 福島市南矢野目仮設住宅(2)
親睦行事での「獅子舞」を
再現披露してくださった


写真7 南相馬市
友伸エンジニアリング仮設住宅(1)


写真8 南相馬市
友伸エンジニアリング仮設住宅(2)

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