諸宗教の支援活動の連携を目指して

東北ヘルプは、心の相談室の立ち上げに関わりました。そして今、東北ヘルプ事務局長は、心の相談室の「室長補佐」の責任を担っています。

心の相談室は、諸宗教者協働の支援活動の枠組みです。この枠組みを用いて、更なる新しい展開が、望見され始めました。

この春、心の相談室を核として、東北大学に「寄附講座 実践宗教学」が立ち上がりました。宗教者の協働を現在の社会制度の中に定着させるための枠組み作りが、その役割です。ホームページも、出来上がりました。こちらをごらんください。)

そして、森田さんとおっしゃる融通念仏宗のご僧侶が、この講座の最初の学生となってくださいました。そして、その方と共に、宗教者による支援活動を連携させる試みが始まりました。その最初の報告書が、以下の通り寄せられました。感謝して、報告いたします。

キリスト教をはじめ、多くのよき業が、被災地に展開し続けています。これが結び合い、共働すべき部分を協力し合うことができれば、私たちの社会は、ずっと住みやすくなるかもしれません。そんな幻を抱きながら、ご報告いたします次第です。

(2012年6月7日 川上直哉 記)

天理教災害救援ひのきしん隊(本部:奈良県天理市)
(東北・北海道ブロック:宮城県復興支援活動)見学報告

2012年6月5日(火)午前

この度、齊藤軍記・宮城県宗教法人連絡協議会会長(天理教多賀城分教会)のお口添えにより、天理教災害救援ひのきしん隊(以下、災救隊)の現場での活動を見学させて頂く機会が得られました。

ちなみに、ひのきしんに漢字を当てると日の寄進となるところから、一般には「日々の寄進」と解されていますが、「日を寄進する」、すなわち、一日の働きをお供えすること、という解釈もあるようです(道友社刊『ようぼくハンドブック』より)。

JR矢本駅(宮城県東松島市)付近の東松島市商工会館にて、鈴木理一・災救隊副本部長より、これまでの災救隊の活動概要や他団体との連携などについてご説明頂き、続いて松井善年・災救隊宮城隊隊長に、隊員の方々が寝泊まりされている宿営地および実際に活動をされている場所をご案内して頂きました。

この始めに訪れた商工会館には、中心となる暫定本部があり、そこの食堂では多くの隊員が食事を摂ることができるほどのスペースが確保されています。

配膳車などは組み立てが可能で、奈良県の天理教本部より持ち寄ったとのことです。ちょうど数人の女性隊員が作業をされている最中でありましたが、こういった食事準備などの縁の下の力持ちが大切になるのでしょう(実際には、食事だけではなく、生活や救護などかなり詳細にそれぞれが分担されています)。

当日、配布された資料には、表紙をめくった次のページに『宣誓』と題して、以下のような言葉が挙げられていました。

我々は、天理教災害救援ひのきしん隊員であります。(隊員復唱)
一れつ兄弟の自覚に立ち、(隊員復唱)
真実をもって救援活動にあたります。(隊員復唱)

ここでの「一れつ」とは、きょうだいが困っていたら、助けられるみんなで助けようとのことであると、ある隊員の方からお聞きいたしました。

以前は、各教区それぞれ独自のスタンスをとっておられましたが、全国組織の必要性を感じ1971年に各都道府県の教区に、災救隊が発足し、その本部が奈良県天理市に置かれることとなったようです。

この度の救援活動に際しては、宮城隊は他の教区からの受け入れ態勢を整備することも重要な役割であるそうです。

この日、訪ねた際には、北海度教区隊の隊員が、ある石油製品を取り扱う企業の土地に宿営地を構え、その場所をベースとして、それぞれの担当場所での救援活動にあたっておられました。

この場所(宮城県東松島市矢本字一本杉)は、ちょうど45号線(石巻街道)と43号線に挟まれた場所です。

行政(東松島市)が仲介したおかげで、宿営地として寝泊まりする事ができるようにテントを設営したり、重機を運ぶ車を駐車できるように広大なスペースが確保されていたりしていました。砂利が敷かれた地面でありましたが、隊員たちそれぞれコンパネを活用したりパイプ椅子を使ったりと工夫しながら自分たちの寝床を築いておられました。

別の地域である気仙沼の方では、高台の公園を宿営地としてお借りし、給水車で水を運び、自分たちの飲料水や仮設浴場で使用する水を確保しながらの寝泊まり生活を送るそうです。

宿営地の一角には、資材テントと並び、礼拝やミーティングを行う事ができる集会テントも設営されていました。

このテントには、天理教の教旗が祭られ(ここでは、室内である為、テントの支柱に固定されていましたが、屋外の場合は、他の旗を掲揚するのと同様に掲揚するそうです)、そこで、朝夕の礼拝が実施されたり、隊員同士の意見交換が行われたりします。朝夕の礼拝時間は15分ほどで、特に夕方は、重機などを使用しているので、無事に仕事を終える事ができた事に感謝しながら礼拝をしますとのことでした。進行を担当するのは、大体、本部長であり、不在の場合はそれに準ずる役職の方だそうです。

具体的には、昨年の4ヶ月ほどは、一般ボランティアに交じって、そのボランティアの活動範囲内で関わりを始められましたが、現在では、行政とのすり合わせをしながら独自で動くというスタイルに変化し、災救隊の活動をご存じの方が直接ご連絡をしてくださることもあるそうです。現地に入って、地域の特性からか曹洞宗の方々と一緒に活動することもあるそうで、それ以外の他の団体でも同様に連携をとって活動を行います。

諸々の団体との連携に加えて、行政との関係を築いておられるのも大きなアドバンテージかもしれません。それほどまでの信頼関係ができたのは、実は平成15年(2003年)5月に発生した宮城県沖を震源とする地震以来、救援活動を継続して行っているからではないでしょうかとお話しくださいました。

ただ、担当者が年度末で替わると、そういった連携が鈍くなることもあり、もどかしさを経験することもあるそうです。重機やチェーンソーなどを使用することにより、他のボランティアさんには真似できないような大きな仕事ができることも感謝される所以ではないでしょうか。

現時点での具体的な救援内容は、活動地域の実情として、泥出しの作業は一段落し、塩害で枯れた木々の伐採および植樹、草刈りに移行しています。配布された資料に記載された活動場所の情報より枯木本数の大小はあるものの、およそ20カ所の公園が対象となっています(ちなみに、その資料に示される救援活動期間は10日間で二分隊が活動される)。

現場を見せて頂いた、矢本第二中学校の近くに位置する南新町公園には、伐採された、まさに切り株が、それまで大いに茂っていた大木があった箇所に点在していました。ちょうど北海道教区の隊員が活動されており、その隊員たちの配慮で、切り株の角が丸められ、誰でもそこで一休みできるようになっていました。大体、一カ所の公園であれば、一日半ぐらいで作業は完了し、その現場を後にするそうです。

聞けば、近くに流れている河川が決壊したのではなく、違う場所で決壊した水が押し寄せてきて、その矢本第二中学校の体育館の観覧席まで水が達したとのことです。そこで助かった方々は、体育館のカーテンで自分たちの身体を覆い、寒さを凌ぎ、救助をお待ちになっておられたようです。

この周辺に製紙工場があるため、そこに保存されていた丸太が次々と窓ガラスを突き破って民家に突っ込んでいたり、その中学校も例外ではなく流れてきたりしたため、これまでの泥出しの作業は本当に大変だったようです。ある隊員からの話で、最後まで見つからなかった一人の女児が、その作業中に、隊員たちによって見つけられ、後ほど家族の方から感謝されるという、隊員たちにとっても忘れ得ぬ出来事があったようです。

それぞれの作業現場でのご縁からか、個人的にお手伝いをしている隊員もいらっしゃるようですが、組織としては原則、そこまでの余裕がないようで、恐らくは隊員の中で歯がゆい思いをされている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

さらに、日本では、宗教団体の介入の難しさを痛感しているという声も伺いました。どうしても布教されるのではないか、あるいは支援を受けたばかりに何かを要求されるのではないかという疑念がその背景には見え隠れするようです。

総じて、強調され印象に残っていますのは、宮城県に限らず、全国どこの教区でも言えることでありますが、これまでの日々の訓練があったおかげで、今回の震災後に動くことができましたという頼もしい言葉でありました。日々の訓練がなければ、恐らくどのように救援活動をして良いかが分からなかったのではないかと思うとのことでした。今回の震災支援について、その訓練のおかげだと実感されておられましたが、最近では今年初頭の豪雪の際にも、災救隊は新潟県での除雪作業で活躍されておられました。

災救隊の方々には、お時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございました。

以上

(文責:森田敬史)











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